Chapter 613

 ……ここ、どこ?

 真っ暗というか、明かりがない。わたしがもそっと起き上がると、いつものお布団とは違う感触がした。まふまふとした手触りと完全に何かで包み込まれているような状況にわたしは自分の状況を思い出す。

 ……そうか。ここはアーレンスバッハで、レッサーバスの中だ。

 同じ客間を護衛のために男の側近達も出入りするので、寝顔とか寝相を晒さないように窓を閉めて寝たのだった。寝る前に飲んだ回復薬がよく効いたようで体調も魔力も回復しているのがわかる。

 ヴァッシェンをしただけで眠ったので、騎獣服のままだ。わたしは髪を手櫛で少し整えてからレッサーバスの窓を少し開けた。すぐ近くにアンゲリカの後頭部が見える。

「アンゲリカ、おはようございます。身支度のための側仕えを呼んでほしいのですけれど……」

「かしこまりました」

 アンゲリカがすぐにレオノーレへオルドナンツを飛ばし、男性の側近達を部屋から追い出していく。代わりに、一人の側仕え見習いを連れたレオノーレが入ってきた。

「おはようございます、ローゼマイン様。体調はいかがですか?」

「完全に回復したようで、とてもスッキリしています」

 わたしがそう答えると、心配そうだったレオノーレが胸を撫で下ろして安堵の微笑みを浮かべた。

「ローゼマイン様がお休みになってから丸二日がたっています。全く目を覚まさないので、心配いたしました」

「丸二日ですか!?」

 どうやらよほど魔力や体力を使ったようで、わたしは死んだように眠っていたそうだ。一向に目を覚まさないわたしに側近達はハラハラしていたようだけれど、投薬量を指定したフェルディナンドは「起きるまでに二、三日はかかるはずだ」と言っていたらしい。

「……そのフェルディナンド様はどうしているのですか? この機会に自分も休息を取っているなんてことはあり得ませんよね?」

 二日もたてばエーレンフェストの状況は大きく変わっているはずだ。フェルディナンドがおとなしくわたしの回復を待ってアーレンスバッハにいるはずがない。そんな予測は正しかったようで、レオノーレはコクリと頷いた。

「フェルディナンド様はアーレンスバッハとダンケルフェルガーの騎士団の一部を率いてエーレンフェストに出発されました」

「わたくし、置いて行かれたのですね?」

 エーレンフェストへ行きたかったら薬を飲め、と言っておきながら置いて行くのはひどすぎる仕打ちではなかろうか。

 ……倍量を飲むの、すっごく大変だったのに!

「正確にはこれ以上ダンケルフェルガーの騎士達を城に留めておけなくなったので、フェルディナンド様が率いて外へ出ることになったのですよ」

 本物のディッターだ、と言って外へ出せば指揮官の命令通りの行動をするけれど、特に役目もなく城にいれば反省会と言って宴会をしようとし、本番前の手慣らしと言って後処理に忙しいアーレンスバッハの騎士達とディッターをしようとする。そんなダンケルフェルガーの騎士達を城から追い出すためにも、フェルディナンドは境界門へ向かったそうだ。

「ちょっと待ってくださいませ。それでフェルディナンド様は回復できたのでしょうか?」

「丸一日は隠し部屋から出ていらっしゃいませんでしたから、回復はできたと思いますよ」

 そう言ったレオノーレが身支度のために騎獣から出てくるように、と言う。わたしはレッサーバスから出て、鏡の前に座らされた。

「本日はわたくしが身支度のお手伝いをさせていただきます。フェアゼーレとお呼びくださいませ」

「レティーツィア様と一緒に救出された側仕え見習いですよね? レティーツィア様もフェアゼーレも少しは休めましたか?」

 見覚えのある少女に声をかけると、フェアゼーレは嬉しそうに微笑んだ。

「はい。レティーツィア様もお元気です。……ローゼマイン様、レティーツィア様を救ってくださってありがとう存じます」

 顔を洗う準備をしながらフェアゼーレがレティーツィアのことでたくさんお礼を言う。フェルディナンドの課題の厳しさから救うためのお菓子に始まり、ランツェナーヴェの船から救い出したことや、反逆を起こした領地の領主候補生ではなく、ランツェナーヴェに襲われた者として救済するとわたしが決めたことで、レティーツィアはとても救われたそうだ。今はわたしを新しいアウブとして受け入れるために、ランツェナーヴェの被害にあった貴族達やハルトムートやクラリッサの洗脳犠牲者をまとめているらしい。

 ……フェルディナンド様の命令があったんだろうけど、頑張ってるなぁ。

「ローゼマイン様は三日ほど目覚めないとフェルディナンド様がおっしゃったのですが、やはり不安で……。ローゼマイン様がお目覚めにならないことをレティーツィア様が大変心配していらっしゃいました」

 この後で食事を摂るならばレティーツィアやハンネローレと一緒にどうか、と尋ねられたわたしはレオノーレを振り返る。気軽に受けて良いのかどうか判断できないので、フェアゼーレを呼んだレオノーレに尋ねることにしたのだ。レオノーレは小さく頷いた。

「では、食事の準備をさせましょう」

 フェアゼーレはオルドナンツを飛ばした後、洗顔の道具を片付けて髪を整え始めた。わたしの髪を梳り、まとめはじめる。髪を褒めながら複雑に編んでいく。

「英知の女神 メスティオノーラと同じく闇の神の祝福を受けた夜空のような髪、星がきらめくような艶だとローゼマイン様の側近二人が絶賛していますが、本当にその通りですね」

 ……あの二人を誰か止めて。フェルディナンド様の命令に喜々として従ってたから無理だってわかってるけど、誰か止めて。

「お二人は今もアーレンスバッハの貴族達にローゼマイン様がいかに素晴らしい主であるのか、そして、アーレンスバッハが置かれている情勢をアイゼンライヒの歴史と合わせて説いています。王族からどのような沙汰があるのか、アーレンスバッハの貴族達は戦々恐々としているのです」

 政変でも苛烈な粛清が行われたのだ。外患誘致による反逆となれば、一体どのくらいの粛清が行われるかわからない。ハルトムートとクラリッサはアーレンスバッハの貴族達の恐怖心を煽りまくっているようだ。

 ……ちょっと大袈裟だけど間違ってはいない。間違ってはないんだけど。

「そんなわたくし達にとって、長い不在期間に神々から祝福を受けて英知の書を預かり、王族にグルトリスハイトをもたらす役目を負ったメスティオノーラの化身であるローゼマイン様はまさに救いの女神です」

 ……へ?

「王族にグルトリスハイトを授け、混沌の女神に魅入られたアーレンスバッハを浄化するため、女神の化身であるローゼマイン様がこの地を導いてくださるのでしょう?」

 ……のおおおぉぉぉ! 何かわけがわからないことになってる! 誰だ、仕掛け人は!? って、一人しかいないよ。フェルディナンド様め!

 文句を言いたくてもフェルディナンドはもう城にいない。頭を抱えたいけれど、フェアゼーレが整えている時にそんなことができるわけがない。

 うぅ、と唸りながら鏡を見ていると、作業をするフェアゼーレがマントを邪魔そうにしていることに気が付いた。お仕着せらしい服の上にフェアゼーレは藤色のマントをつけているのだ。そのマントには黄色と青の染料で斜線が引かれて大きく×のマークがついている。何か意味があるのだろうか。

「フェアゼーレ、アーレンスバッハでは側仕えが仕事をする時にマントを着用する義務でもあるのですか? 動きにくそうに見えるのですけれど……」

「普段は付けませんが、今は特別です。ローゼマイン様やエーレンフェストの方々に敵意がない者とフェルディナンド様によって判断された者だけが着用を許されています。この印が入ったマントをつけていない者は捕らえられ、判断できるまで解放されません」

 なんとフェルディナンドはわたしがレッサーバスの中に引き籠って寝ているうちに、レッサーバスごとシュツェーリアの盾に入れて、アーレンスバッハの貴族達の敵意を確認したらしい。

 ……グリュンに敵対心を持った人、いなかったのかな?

 身支度を整えると、側近達が雪崩れ込んできた。長い時間目を覚まさなかったことで、護衛騎士達はとても心配していたようだ。コルネリウス兄様には「本当に大丈夫かい?」と顔を覗き込まれたし、マティアスとラウレンツはあからさまにホッとした顔になっていた。

「わたくしはもう大丈夫です。それよりもエーレンフェストが心配なのですけれど……」

「ローゼマインのためにはもう少し休んだ方が良いと思うけれど、エーレンフェストが心配なのは同じだ。行くならば止めないよ」

 コルネリウス兄様にわたしは笑顔で頷いた。エーレンフェストがどうなっているのか確認して、養父様にこちらの状況を伝えなければならないだろう。

「ローゼマイン様がどうしてもエーレンフェストへ行きたいのであれば、オルドナンツを飛ばしてフェルディナンド様の現在地を確認した後で転移陣を使うように、とおっしゃっていました」

 フェルディナンドには置いて行かれたけれど、アウブでなければ設置できない転移陣を使って後を追うことは許されているらしい。ラウレンツの言葉にわたしは気が楽になった。

「ダンケルフェルガーの騎士達とフェルディナンド様達はもうじき境界門のあるザイツェンに到着するとオルドナンツが先程飛んできました。境界門の騎士達に話を聞き、お昼の休憩を取ったら、エーレンフェストへ入るそうです」

「では、転移陣を使って追いかけるというか、境界門へ先回りいたしましょう」

「危険すぎるのでやめてください!」

 マティアスに怒られて、わたしはフェルディナンドに目覚めたことと境界門に転移陣を開く予定であることを知らせるオルドナンツを送る。「境界門に到着したら連絡するので、勝手な転移をせずに待っていなさい」という返事が来た。

「……ローゼマインはこのままアウブ・アーレンスバッハになるのかい? そういう噂が流れている。フェルディナンド様もローゼマイン様が了承したとおっしゃった」

「できればアウブになって図書館都市を作りたいと思っていますよ」

「は? 図書館都市? アーレンスバッハを正しく導くのではなく?」

 わけがわからないというような顔をしたコルネリウス兄様にわたしは緩く首を横に振った。

「わたくし、図書館都市を作りたいのです。けれど、王族との話し合いがどうなるのかによるでしょうね。……今までわたくしが望んだ通りになったことの方が少ないですから」

 青色巫女見習いとして神殿に入って気ままに下町と神殿を行き来しながらルッツと本を作るという望みは消えた。貴族院に入る年までは家族と過ごすという予定もビンデバルト伯爵によって潰れた。

 領主の養女として教育を受けるはずだった二年間はユレーヴェによって消えて周囲の成長に置いて行かれたし、今度は逆に神々から急激な成長をさせられて周囲から奇異な目で見られている。

 行かないでほしいと思ったけれどフェルディナンドはアーレンスバッハへ行ったし、無事であってほしいと思っていたけれど毒に倒れた。エーレンフェストにいたいと思っていたけれど、いられなくなった。

「わたくしがアウブ・アーレンスバッハになることができたらフェルディナンド様とお話をしたような領地経営もできるかもしれません。けれど、王の養女になるように言われている今の状況ですんなりとアウブ・アーレンスバッハになれるとは思っていません」

「ローゼマイン?」

「王族にグルトリスハイトを授けたとしても、すんなりと解放されると思いますか? わたくしがアウブ・アーレンスバッハになるなんて夢のまた夢の話ですよ」

「……そうか。ローゼマインは意外と現実的だな」

 ひどく複雑そうな表情でコルネリウス兄様がわたしの頭を軽く叩いた。

 側近達との話が終わると、食堂へ案内された。わたしにとっては朝食だが、他の人にとっては昼食になるらしい。食堂にはレティーツィアとハンネローレ、それから、二人の側近達がいる。

「お加減はいかがですか、ローゼマイン様?」

「もう大丈夫です、ハンネローレ様」

「体に良い食事を準備させました」

「ありがとう存じます、レティーツィア様」

 レティーツィアもその側近達も全員が黄色と青の×が付いているマントをつけている。フェアゼーレ一人を見ていた時には特に何も思わなかったけれど、こうして何人もが同じマントをつけていると、エーレンフェストとダンケルフェルガーが征服した証だと嫌でもわかった。

「ローゼマイン様、この印はフェルディナンド様が率いている騎士のマントにもついていて、間違えて攻撃をしたり、捕らえたりしないように指示が出されています。敵と味方を識別するために使ってくださいね」

 レティーツィアがそう言って微笑んだ。香辛料が多くて、味が濃い目のスープを飲みながらわたしはレティーツィアとハンネローレから眠っていた間の話を聞いた。

「ランツェナーヴェの館はダンケルフェルガーの騎士達によって探索が済まされました。レティーツィア様のお言葉通り、アウブでなければ開けられない扉が存在しています。フェルディナンド様によると、ランツェナーヴェの姫君を受け入れる離宮に通じているそうです」

 わたしが許可を出さない限り、あちらから戻ってくることもできないらしく、ランツェナーヴェの館はすでに閉鎖されているそうだ。

「貴族院の寮へ移動する転移陣、寮から中央棟へ出入りする扉を開くにも新しいアウブのブローチが必要ですからディートリンデ様達が転移陣で戻ってくることはできないと思われます」

「ありがとう存じます、ハンネローレ様」

「いいえ。飲食した分、ダンケルフェルガーの騎士達を働かせるのは当然ですから。むしろ、お休みの時間が少なかったフェルディナンド様にご負担ではないか心配です」

 フェルディナンドの体調が悪いならば代わりに自分達が手足として動くぞ、と盛り上がっていたようだが、あくまでフェルディナンドを休ませるという意見は出なかったらしい。

 ……ダンケルフェルガー!

「アーレンスバッハの文官達は騎士達によって引き上げられた魔石の数々と登録されているメダルを突き合わせ、誰の魔石なのか確認作業を行っています。……フェルディナンド様は最小限に被害が抑えられているとおっしゃいましたが、それでも、何人もの犠牲者がいます」

 レティーツィアが悲しそうに視線を落とす。何と言って慰めれば良いのかわからない。

「フェルディナンド様が最小限だったとおっしゃったのでしたら、最小限だったのです。レティーツィア様はシュトラールを通じて皆に危険を知らせたのでしょう? シュトラールはその命令に従って貴族達を守ったのでしょう? ランツェナーヴェの手に落ちそうな時に自分ではなく、貴族達を助けてほしいと命じたレティーツィア様は素晴らしいと思いますよ」

「ローゼマイン様、ですが、わたくしは……」

 泣きそうな顔でわたしを見たレティーツィアに、わたしは口の前で人差し指を立てる。フェルディナンドと約束したはずだ。何事もなかったかのように過ごす、と。

「詳しいお話はフェルディナンド様と伺います。わたくし、昼食を終えたらエーレンフェストに行くので、その後ですね」

 レティーツィアは自分の口を押さえて頷いたけれど、ハンネローレは不思議そうに目を瞬いた。

「ローゼマイン様はエーレンフェストに行くとおっしゃいましたが、ここの礎はどうなさるのですか? 新しくアウブとなったローゼマイン様はアーレンスバッハの礎を守らなければなりませんよ」

 それがアウブの役目で、ディッター中に宝から離れることはあり得ないとハンネローレが言う。わたしはクスッと笑った。

「ハンネローレ様、礎を奪いたい者がいるならば奪っても構わないのですよ。反逆の最中の領地を王族の許可もなく得ようと思う方がいれば、のお話ですけれど」

 わたしは王族の許可証を持っているが、持っていない者がアーレンスバッハの礎を得たいと考えるとは思えない。どうしても欲しいならば、得れば良いと思う。きっとフェルディナンドは全ての責任を押し付けてくれると思う。

「それに、普通は礎を奪われてアウブが変わると、先代のメダルの廃棄が行われるのが常です。けれど、わたくしのメダルはまだエーレンフェストにあります」

 メダルの廃棄ができないということは、処刑もできない。わたしにとっては痛くも痒くもないのだ。

「最後に、わたくしはすでに礎の場所を把握しています。どうしても礎が欲しくなったら、また奪えば良いのですよ。魔力の勝負ではあまり負ける気がしません」

「……それもそうですね」

 ハンネローレはクスッと笑い、自分達も一緒にエーレンフェストへ向かうと言った。

「ハンネローレ様も、ですか? 危険がないようにこちらで留守をするように言われているのではありませんか?」

「いいえ。わたくし、このディッター中はこちらの宝であるローゼマイン様をお守りするようにフェルディナンド様から指示を受けているのです」

 昼食後、出発することを告げ、一緒に移動する人数が入れるだけの大きさの転移陣を描ける場所へ案内してもらった。そして、魔法陣を描いて設置していく。

 わたしがエーレンフェストに行くと言い出した時に同行させるメンバーはフェルディナンドによって選出が終わっているようで、わたしが魔法陣を描いている間に人が集まってくる。わたしの側近達とハンネローレ部隊、それから、アーレンスバッハの騎士が五人である。

「メスティオノーラの化身であるローゼマイン様をお守りする任務に就けたこと、心より嬉しく存じます。我等の同胞を救うために戦地へ向かう慈悲深さに感謝します。神に祈りを! ローゼマイン様に感謝を!」

「ひっ!?」

 いきなり神と同等の感謝を捧げられ、後ろに一歩引いただけで踏み止まれたわたしを誰か褒めてほしい。満足そうに頷いているハルトムートの姿に思わず泣きそうになってしまったわたしを慰めてほしい。眠っていた二日の間に、これほど周囲が変化するなんて誰が想像するだろうか。

「あ、あの、わたくし……」

「ローゼマイン様の準備が整いました。これからザイツェンへ転移します」

 わたしの動揺は見ない振りなのか、これが計画通りなのか、ラウレンツはニコリと微笑んだだけでフェルディナンドにオルドナンツを飛ばす。すぐに返事が戻ってきた。

「ザイツェンではなく、ビンデバルトへ移動してくれ。昨夜ビンデバルトからたくさんの騎士がエーレンフェストへ雪崩れ込んだという情報が入って、現在移動中だ。我々は今ビンデバルトに入ったところで、そろそろ夏の館が見えてくると思われる。エーレンフェストに入る前に合流したい。急げ」

 フェルディナンドからの返事に皆が表情を引き締めた。わたしは転移陣に乗っている皆を見回す。

「全員、転移陣に手をついて魔力を注いでくださいませ」

 皆が跪いて転移陣に手を付ける。わたしも跪いて魔法陣に魔力を流す。転移陣に闇と光が渦巻いた。シュタープを出して、魔法陣に触れる。

「ネンリュッセル ビンデバルト」