Chapter 636

 またもや真夜中の出発なので、わたしも夕方からは仮眠をとる予定だ。そのためにも、今は頑張って準備しなければならない。わたしはハルトムート達を呼んでフェアベルッケンによって隠蔽されている離宮を探すためにはどうすれば最も効率が良いのか調べたり、必要な魔法陣を準備したりすることにした。

「隠蔽の神 フェアベルッケンの印を刻んで扉や離宮自体を見えにくいようにしているようです。助言の女神 アンハルトゥングの印を使うことで、どこに隠されているのか探ることができると思います」

 わたしがアウブ・ダンケルフェルガーとの通信の内容を説明すると、ハルトムートが記憶を探るように腕を組んで俯く。

「探し物に関するような魔法陣は、貴族院の講義中にあまりございませんでした。どちらかというと特殊な魔法陣になると思いますが、ローゼマイン様はご存知ですか?」

「ローゼマイン様、アンハルトゥングで暴くことも必要ですが、フェアベルッケンの印を我々が使って敵に気付かれずに隠密行動を取ることができれば、とても有効な手段になるのではございませんか?」

 ハルトムートやレオノーレが意見を出す中、わたしはメスティオノーラの書を出してフェアベルッケンやアンハルトゥングの項目を検索してみる。もうこの執務室にいる人は全員がメスティオノーラの書を持っていることを知っているので隠す必要もない。

「ハルトムート、この魔法陣は探し物に使えそうですよ」

 自分の知識で穴埋めができる魔法陣を選別してから紙に描いてハルトムートに差し出す。

「魔法陣は平気なのですね」

「そうですね。魔法陣を描くことは別に何ともありません」

「……では、オルドナンツに使われているオルドシュネーリの魔法陣を少し改良すれば声のやり取りができるかもしれません。戦いの場に赴くには必要だと思われます」

 ハルトムートが講義で習う物以外でオルドシュネーリに関する魔法陣について調べてほしいと言う。確かに通信手段を持っているのと持っていないのでは大違いだろう。ハルトムートの着眼点に感嘆しつつ、わたしはメスティオノーラの書を検索する。

 ……古い魔法陣はフェルディナンド様の方がいっぱい持っているんだよね。

 ちょうど良いのがあるだろうか、と思いながら検索していたわたしはハルトムートを見上げて、ん? と首を傾げた。

「ハルトムートも寝不足の顔になっていませんか? フェルディナンド様ほどではなくても休んでいないでしょう?」

「おや? ローゼマイン様が私にもシュラートラウムの祝福をくださるのですか?」

 おどけるように眉を少し上げたハルトムートとクラリッサを見比べる。クラリッサが「お願いします」と言いたげな表情をして胸の前で指を組んだのが見えた。

「ハルトムートの頑張りはよくわかっています。祝福を与えるのを惜しむことはありませんよ」

「では、フェルディナンド様が起きたら交代で祝福をいただきましょう」

 これ以上、わたしの周辺から側近を減らすことはできないとハルトムートが首を横に振った。わたしは自分の周囲を見回した。確かに護衛騎士達は今夜の戦いに向けて、交代で休みを取っているし、起きたら全力で動き始めるフェルディナンドを補佐するためにユストクスとエックハルト兄様も休息を取っている。

「ご安心ください。私はローゼマイン様と共に休みます」

「ローゼマイン様の仮眠時間に合わせて、と言ってくださいませ、ハルトムート」

 レオノーレがうっすらと笑みを浮かべてハルトムートを睨む。

 そんなやり取りを見ながら、わたしはハルトムートとクラリッサが作った魔紙にせっせと魔法陣を描いたり、ランツェナーヴェの館から移動したと思われる貴族達の数をレティーツィアに確認したりして過ごしていた。

「ずいぶんと早起きですね、フェルディナンド様」

 もっとぐっすり眠っていると思っていたのに、フェルディナンドは五の鐘が鳴るよりも早く起きてきた。起きてきた時間は予想よりも早いけれど、顔色はずいぶんとよくなっている。

「ローゼマイン、相手の予定が狂うような祝福を行う場合は事前に相手の許可を得るように」

「では、フェルディナンド様も今度からわたくしの許可を取ってくださいね」

 許可を得ずに祝福を行ったのはお互い様だ。わたしがフェルディナンドを睨むと、「善処する」と嫌そうな顔で頷いてくれた。

「フェルディナンド様はどのような夢を見ましたか? わたくし、素敵な図書館でたくさん本を読む夢を見たのですよ」

「……何ということもないものだった」

「おかしいですね。わたくしのお祈りが足りなかったでしょうか?」

 あっという間にフェルディナンドが眠ってしまったので祝福に使った魔力はそれほど多くなかったけれど、もっとだぱっと魔力を注いだ方が良かっただろうか。

「余計な気は回さなくてよろしい。それよりも何か連絡はあったか? 準備はどのようになっている?」

 フェルディナンドはわたしではなく、ハルトムートに説明を求めて話し始める。

「フェアベルッケンの印を持って隠密行動を行うのは良い案だ。むしろ、ダンケルフェルガーの騎士に与えたい」

「わたくし達は国境門から転移陣を使って移動する時点で非常に目立ちますものね。ダンケルフェルガーへ迎えに行った時も門が光ったそうですし……」

 隠密行動が今更になる可能性が高いとわたしが言えば、フェルディナンドは少し考え込むようにこめかみをトントンと指先で叩いて「持っておいた方が良いであろう」と言った。

「フェルディナンド様、レティーツィア様から戦いの前に即死の毒についてお話をしたいとお願いされました。レティーツィア様の立場上、大っぴらにお話できることではないようですし、わたくしの護衛騎士達が二人きりにはできないと言うので、フェルディナンド様が起きてから、とお答えしたのですけれど、お時間はよろしいですか?」

 この先の戦いでランツェナーヴェの者達が使ってくる可能性は高い。何か知っていることがあるならば教えてもらった方が良いと思う。けれど、レティーツィアの扱いをどうするのかは、被害者であるフェルディナンドの意見をある程度は尊重したいのだ。

「……構わぬ。聞いておこう。ランツェナーヴェの情報は非常に入りにくかったからな」

「では、お茶の準備をさせますね。フェルディナンド様は昼食を摂っていないので、軽食の準備も必要かしら?」

「ローゼマイン様がお昼からずっと心配されていらっしゃったので、すぐにでも軽食の準備はできますよ。エーレンフェストから持ち込んだ料理とアーレンスバッハの軽食、どちらがよろしいですか?」

 リーゼレータがクスッと微笑みながら尋ねると、ユストクスが「エーレンフェストから持ち込んだ料理をお願いします」と答えた。

 リーゼレータとゼルギウスが中心になって執務室の隣室にお茶の準備を始める。わたしはグレーティアに頼んでレティーツィアに連絡を入れてもらった。お茶の時間を少し早めて話し合う時間を作ったことを伝えて、お茶をする部屋へ来てもらう。

 レティーツィアとハルトムートからわたしの行動の報告を受けたフェルディナンドが集まった時には、完璧にお茶の準備が整い、範囲指定の盗聴防止の魔術具が作動されていた。

「それで、一体何の情報を?」

「危険な毒の入った銀の筒をランツェナーヴェの者達は持っています」

「知っている。どのような毒か、ローゼマインもエーレンフェストの戦いで見ているので詳細はいらぬ」

 フェルディナンドの短い返事にレティーツィアは少し言葉を探すように視線を動かす。

「彼等は自分達に毒が効かないようにするための薬を持っています。ですから、彼等が口元を布で覆っていなくても危険な毒を使うことができます。お気を付けください」

「薬?」

「はい。お土産にいただいたお菓子ととてもよく似た形や味をしています。けれど、最後まで口に含んでいると中心部に少しだけ苦みがありました。あの日、わたくしは供給の間へ向かう途中でディートリンデ様とレオンツィオ様に呼ばれて、それをいただいたのです」

 レティーツィアの筆頭側仕えであるロスヴィータが突然姿を消して行方がわからなくなって二日がたち、供給の間でフェルディナンドに相談する時間を取ってもらう約束をした時の話だそうだ。

「狭い部屋の中ではとても強力です。フェルディナンド様の側近達がどこかへ駆け出した後、レオンツィオ様がアウブの執務室で使いました。その時は、わたくしとわたくしの毒見として先に食べていたフェアゼーレ以外は皆……」

 レティーツィアが震える唇をぎゅっと引き結んで俯いた。エーレンフェストで魔力供給をする時は、側近の中でもアウブと血縁関係にある上級貴族だけがアウブの執務室で待機できる。その上級貴族達が一斉にあの毒にやられたのだ。自分の側近達が一斉に魔石に変わる場面が頭に思い浮かんで、わたしは思わず口元を押さえる。

「……レティーツィア、毒の脅威と解毒や中和に使える物があることはわかった。もう良い。下がれ」

「かしこまりました。……本当に、本当にお気を付けくださいませ。ランツェナーヴェの方は、わたくし達を魔力の塊のようにしか見ていません」

 レティーツィアが碧眼を悔しそうに揺らしながら退出していった。

「……大丈夫か、ローゼマイン?」

「き、気持ちは悪いですけれど、大丈夫ですよ。レティーツィア様のお話を聞くと決めたのはわたくしですし、わたくしよりレティーツィア様の方がよほどひどい光景を目の当たりにしているのですから」

 トラウマにならないはずがない。レティーツィアにこそ手厚い保護が必要だ。

「だが、レティーツィアは私に毒を向けた罪人でもある。救済はあっても良いと思うが、どのようにレティーツィアを扱うかは後回しだ。同じ思いをする者がこれ以上増えないように、ランツェナーヴェの者達を捕らえねばならぬ」

 ランツェナーヴェの者達を野放しにしておけない、と強く思った。わたしはフェルディナンドが差し出した手を取って立ち上がり、頷く。

「君はそろそろ仮眠の時間であろう? 今日もシュラートラウムの祝福は必要か?」

「昨夜よく眠れたので、今日のわたくしには効かないと思いますよ。むしろ、ハルトムートに祝福が……」

「ハルトムートの自室へ赴き、私が祝福しておくので君はさっさと寝なさい」

 図体のでかい男を運ぶのは大変だから、とフェルディナンドは軽く息を吐いた。どうやらエックハルト兄様に運ばれたのが気に入らなかったらしい。確かにわたしでは男性の部屋に入れないので、フェルディナンドにお願いした方が良いだろう。

 これはついでだ、と言いながらフェルディナンドがまたシュラートラウムの祝福をかけてくれたけれど、今日は突然眠くなることもなく自室まで普通に戻れた。でも、夢見は良かったので、これからは毎日してほしいものである。

「先日から戦いが続いている。騎士達はゆっくりと休む暇もなかったであろう。万全の体調とは言えぬはずだ」

 訓練場に集まった騎士達を見回しながら、フェルディナンドが口を開く。貴族院へ向かうアーレンスバッハの騎士が八十人、並んでいる。彼等に、わたしやフェルディナンドの護衛騎士や一部の文官達を加えたのが今回の戦力である。

 アーレンスバッハを守る戦力を残しておかなければならないため、今回動かせる余剰戦力はこれだけだ。けれど、エーレンフェストに比べればかなり人数が多いし、ダンケルフェルガーの戦力もある。アダルジーザの離宮を落とすだけならば、それほど難しくはない。

「だが、これ以上休息を取る時間はない。アーレンスバッハを荒らした者達をこのまま放置しておくことはできぬ。新たなアウブを迎えたこの地に平穏を取り戻すためにはツェントに対して反逆の意思などないところを見せねばならぬ。ランツェナーヴェの者達を引き入れた恥知らずを捕らえ、ツェントの前に突き出さねばならぬ」

 返事をするようにドンとエックハルト兄様が槍を地面に打ち付けた。それに呼応するように騎士達がガシャ! と靴の踵を鳴らす。騎士達がまとう空気が熱くなってきた。戦いを前にした熱気が見えるようだ。

「突然襲われて命を失った同胞達の無念、守るべき者を守れなかった騎士としての屈辱、雪げるのは今だけである」

「おぅ!」

「礎を得た領主一族でありながら外国と手を組んで自領を危険に晒した愚か者を許すな!」

「おぅ!」

「アーレンスバッハの街を荒らした者達を一人残らず捕らえよ!」

「おぅ!」

 熱を孕んだ空気の中、フェルディナンドが「ローゼマイン」とわたしの名を呼んだ。わたしがゆっくりと歩み出て、フェルディナンドの一歩前に出た。わたしがすることは決まっている。これから戦いに赴く騎士達に祝福を贈るのだ。

「戦いに赴く皆に祝福を」

 シュタープを握り、わたしは唱える。

「水の女神 フリュートレーネが眷属 雷の女神 フェアドレンナと幸運の女神 グライフェシャーンの御加護がありますように」

 緑の光が騎士達に向かって降り注ぐ。アーレンスバッハの騎士達は祝福を受けたことがないのか、驚いたように軽く目を見張って上を向き、自分達に降り注ぐ緑の光を見つめている。

「炎の神 ライデンシャフトが眷属 武勇の神アングリーフと狩猟の神 シュラーゲツィールの御加護がありますように」

 次は青の光が降り注ぐ。フェルディナンドが「これだけの人数がいるのだぞ。もう十分だ」とわたしの背中を軽く叩いた。でも、わたしは頭を少し横に振って、その制止を拒否した。できるだけ多くの祝福を与えたい。少しでも戦いやすい状態であってほしい。少しでも皆の生存率を上げておきたいのだ。わたしの魔力なんて騎獣で国境門へ移動する時に激マズ回復薬でも飲んでおけばよい。

「風の女神 シュツェーリアが眷属 疾風の女神 シュタイフェリーゼと忍耐の女神 ドゥルトゼッツェンの御加護がありますように」

 夜空か海か区別がつかないような黒一色の世界に境界門と国境門がほのかに光って浮かび上がって見える。暗闇の中をわたしはフェルディナンドの騎獣に同乗させてもらい、お説教を食らいながら回復薬を飲んでいた。空中で激マズ回復薬を飲むのはのたうって危険なので、優しさ入りにするように言われたので、今回は優しさ入りだ。

「無茶をするな、この馬鹿者。あれだけの人数にあれだけの祝福をかけるなど、君の体に負担が大きいし、転移するためにも魔力が必要なことをわかっているのか?」

「わかってはいますけれど、魔力は回復させられますし、戦いの場で命を失ったら戻ってきません。祝福を重ね掛けすることで皆の生存率が上がるのでしたら少しくらい無理をしますよ……」

 できるだけ人が死ぬところを見たくないのだ。わたしの言葉にフェルディナンドが「君は本当に面倒くさい」と言いながら溜息を吐いた。

 境界門を開き、国境門を開く。今回はレッサーバスが使えないので、他の皆には階段から上がってきてもらうことになる。海の上にある扉から入っていく姿を見て、全員が入ったのを確認してから境界門を閉ざした。

 国境門に降り立ち、「ここに並んでください」と珍しそうに中を見回している騎士達に声をかけて転移陣に並んでもらって転移する。

「ケーシュルッセル エアストエーデ」

 転移した先は貴族院の寮にある転移の間に似たような場所だった。かなり広いけれど、四方を壁に囲まれた部屋のようなところである。勝手に出ないように騎士達に命じて、わたしは自分の護衛騎士と一度アーレンスバッハの国境門へ戻り、残りの騎士達を連れてきた。

「フェアベルッケンの印を持ったか?」

 レオノーレの提案で文官達が急遽作ってくれた隠蔽用のお守りである。わたしは魔紙に魔法陣を描いて、お守り代わりに持っている。

「静かに。なるべく早く建物から出るぞ」

 密集しているところへ即死毒を使われては困る。口元は布で覆っているし、それぞれユレーヴェは持っているけれど、特にエーレンフェストから戦いを続けている騎士達はそれほど多くのユレーヴェを持っていない。

 わたしはグルトリスハイトで扉を開けた。エックハルト兄様やアンゲリカが音を立てないように外へ出て、周囲を確認する。すっとエックハルト兄様の手が挙がった。周囲に見張りの騎士達はいないらしい。

 更に先へ行ったアンゲリカが手を横に振る。どうやらその先には人影があるらしい。アンゲリカのいる方向は寮へ向かう扉が並んでいる辺りになるので、中央騎士団の騎士達がいるのかもしれない。

 ここは貴族院の中央棟だ。転移陣のある部屋を出れば、領主候補生コースの講義の時に使っている教室がある辺りだとわかる。全ての国境門へ移動できる転移陣があることからも、ここがユルゲンシュミットの聖地なのだと実感する。

 先を進むのは領主候補生の送り迎えで、この付近を歩いたことがある領主候補生の側近達だ。誰も声を発さず、静かに月明かりを反射するだけの白い建物の中を進む。夜の校舎だと思うと、何だかどこかの教室から理科室の骨格標本のような変な物が何か飛び出してきそうなスリルがある。緊張で手足が震えていた。意味のないことを叫びたくなるような緊迫した沈黙の中、騎士達が窓をそっと開けて外へ飛び出していき、次々と木立の中へ姿を消していく。

「戻らなくても良いのか?」

 小声でフェルディナンドが尋ねた。

「行きます」

 フェルディナンドが騎獣を出して、わたしを乗せて飛び立つと、木立の中で準備していた他の皆も騎獣でアーレンスバッハの寮がある方向を目指して夜空を駆け始めた。

「アウブ・ダンケルフェルガー、ローゼマインです。こちらは中央棟を出ました」

 わたしは早速ハルトムートが作ってくれたオルドシュネーリの魔法陣が刻まれた魔紙に声を吹き込み、宛先をスティロで書き込んだ。紙飛行機にしてダンケルフェルガーの寮がある方向へ飛ばす。

 夜空を紙飛行機が飛んでいった。しばらくすると遠くの方がざわめくのがわかった。